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富山地方裁判所 昭和38年(タ)9号 判決 1965年3月31日

原告(反訴被告) 上田弥太郎

被告(反訴原告) 上田一枝

主文

一、原告(反訴被告)の請求を棄却する。

二、反訴原告(被告)と反訴被告(原告)とを離婚する。

三、反訴原、被告間の長女雅子(昭和二一年七月六日生)および三男徹(昭和二七年七月二一日生)の親権者を反訴原告(被告)、長男肇(昭和二三年一〇月二三日生)および次男彰(昭和二五年一〇月三〇日生)の親権者を反訴被告(原告)とそれぞれ定める。

四、反訴被告(原告)は、反訴原告(被告)に対し、金一二〇万円および内金七〇万円に対して、昭和三八年一〇月二七日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

五、反訴原告(被告)のその余の請求は、これを棄却する。

六、訴訟費用は、本訴および反訴を通じて、原告(反訴被告)の負担とする。

七、この判決は、反訴原告(被告)において金一五万円の担保を供するときは、主文第四項のうち、金七〇万円およびこれに対する年五分の割合による金員の支払を命ずる部分に限り、仮に執行することができる。

事実

一、原告(反訴被告、以下、単に原告と称する)訴訟代理人は、本訴につき、「昭和二八年一一月一四日香川県香川郡塩江村(現塩江町)長に対する届出によつてなされた原告と被告との婚姻は、無効であることを確認する。訴訟費用は、被告の負担とする」との判決を求め、その請求の原因として、次のように述べた。

(一)  原告は、大東亜戦争中から医師として中国で働き、終戦後も引続き同地に抑留されていたが、昭和三一年七月一三日舞鶴港に上陸、帰国した。しかして、原告は、中国に在住中の昭和二〇年五月ごろ、訴外加藤三九朗の媒酌で被告(反訴原告、以下、単に被告と称する)と夫婦(内縁)となり、その間に長女雅子、長男肇、二男彰および三男徹をもうけた。ところで、被告は、原告より一足先に、右四児を伴つて帰国し、昭和二八年一〇月一四日舞鶴に上陛し、原告肩書本籍地の実家に身を寄せていたのであるが、原告が帰国してみると、避姙手術を受け、姙娠不能となつていたため、原告は、被告の不品行を疑うようになつた。

(二)  その後、原告は、引揚医師特例試験受験のため、間もなく愛知県豊田市の前記加藤三九朗方に身を寄せ、該試験に合格したので、同地に被告ら母子を呼寄せ、被告に同地で保健婦として働くことを勧告したが、これをききいれなかつたため、夫婦仲が不和となつて、被告は、もといた香川県塩江町へ帰り、一方、原告は、宮城県牡鹿郡牡鹿町谷川診療所へ赴任し、ついで、昭和三四年一月ごろ原告肩書住所地の細入診療所へ転勤した。そして、そのころから、原告は、訴外坪井節子と内縁関係に入り、その間に聰子および誠司の二児をもうけた。しかるに、被告は、その後原告の許へ、連れて戻つた長女雅子、長男肇、二男彰の三児を置いていつたため、原告は、右坪井節子と共に、右三児をも養育している(長女雅子は、後被告の許へ戻つた)。以上のように、被告は、原告と離別して五年余になるから、夫婦関係を継続する意思がないものである。

(三)  ところで、原告は、前記坪井節子との間に昭和三六年一〇月一五日に前記聰子が出生したので、右節子との婚姻を考え、戸籍の調査をしたところ、原告が中国に抑留されていた昭和二八年一一月一四日に、原告と被告との婚姻届が香川県香川郡塩江村長(現在、塩江町長)に対してなされていることが判明した。しかし、原告は、当時中国にあつて、もとよりかかる届出をなしえなかつたのであり、被告と婚姻する意思を有していなかつたものであるから、右届出は、被告が原告名義を偽造してなした無効のものである。

(四)  よつて、原告は、被告に対し、前記届出によつてなされた原、被告の婚姻は無効であることの確認を求めるため、本訴請求に及んだ。

二、被告訴訟代理人は、本訴につき、主文第一項と同旨および「訴訟費用は、原告の負担とする」との判決を求め、答弁として、次のように述べた。

(一)  本訴請求原因中、(一)の事実のうち、被告が避姙手術を受け、姙娠不能となつていたとの点を除くその余の事実、(二)の事実のうち、原告が訴外坪井節子と内縁関係を結び、その間に二児をもうけたこと、(三)の事実のうち、被告が昭和二八年一一月一四日婚姻の届出をしたことは認めるが、(一)ないし(三)の右以外の事実は争う。

(二)  被告は、昭和一九年満州東満総省東安密山県湖北において、原告と知り合い、昭和二〇年五月三日訴外加藤三九朗の媒酌で結婚式をあげ、以来夫婦としての生活を営んできた。そして、原、被告間に、昭和二一年七月六日に長女雅子、同二三年一〇月二三日に長男肇、同二五年一〇月三〇日に次男彰、同二七年七月二一日に三男徹がそれぞれ出生した。被告は、昭和二八年一〇月一四日、中国から右四児を連れて帰国し、原告の実家(香川県香川郡塩江町)へ落着いたのであるが、長女雅子の小学校入学のこともあつて、原告の実父の了解の下に、被告単独で、同年一一月一四日香川県塩江町長宛に、原告との婚姻の届出をした次第である。また、昭和三一年七月二日原告が帰国した後、原、被告は夫婦として生活してきたことはいうまでもない。原告は、昭和三三年三月宮城県へ赴いたのであるが、その際、被告に対し、「一年位したら、見通しがつくから、呼び寄せる」という約束をして、別居生活をすることになつたものであり、その後、生活費を送金してきていたのである。ところが、原告は、宮城県に赴いて後、前記坪井節子と同棲するに至り、その間に二児までもうけた自己の不貞行為をいんぺいするため、被告との婚姻無効を主張し、被告に対し、これが無効確認を求める本訴を提起するの非常識な手役に出でたものである。

(三)  以上のように、原、被告間には夫婦生活の実体があり、しかも、右事実に照らして、原告に婚姻の意思があつたことは、明白であるから、本件婚姻届出は、有効である。

三、被告訴訟代理人は、反訴として、主文第二項および第三項と同旨のほか、「原告は、被告に対し、金二〇〇万円およびこれに対する反訴状送達の日の翌日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。反訴訴訟費用は、原告の負担とする」との判決、ならびに金員の支払につき仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、次のように述べた。

(一)  本訴答弁において主張したとおり、被告は、昭和二〇年五月三日満州東満総省東安市において、原告と結婚式をあげ、以来夫婦としての生活を営み、その間に、長女雅子、長男肇、次男彰および三男徹の三男一女をもうけ、昭和二八年一一月一四日婚姻届をした。

(二)  被告は、昭和二八年一〇月一四日子供らを伴つて帰国したが、原告は、そのころ中国公安局に引致されて、昭和三一年七月まで帰国できなかつたので、被告は、乳呑子を含む前記四人の子供を抱えながら、香川県塩江町の保健婦として働き、文字どおり貧困と不安の中で、夫たる原告の帰国を待つていたのである。

(三)  原告は、帰国するや引揚医師特例試験受験準備のため(それまで原告には現地医師の資格しかなかつた)、媒酌人であり、恩師でもある愛知県豊田市の加藤三九朗医師の許へ身を寄せた。昭和三二年六月原告が右試験に合格するまで、被告は、ひたすら夫の合格を念願しながら、別居生活の苦しさに耐えてきたが、同年八月に至つて、被告は、子供を伴い、豊田市の原告の許へ赴き、帰国後はじめて、名実とも夫婦生活を営むようになつた。

(四)  ところが、原告は、昭和三三年二月ごろから前記坪井節子と交際しはじめ、恋愛関係に陥り、同年春宮城県牡鹿郡牡鹿町谷川診療所へ赴任することを決意した。赴任に際し、原告は、被告に対して、「非常に不便なところで、学校も分校しかない。一年位したら見通しがつくから、その時に呼び寄せる」といい張つて、被告が同行することを執拗に拒絶した。やむを得ず、被告は、夫の約束を信頼し、一時別居することを承認して、香川県塩江町へ引揚げたのであるが、原告は、宮城県の前記診療所に赴任するや、坪井節子と同棲するようになり、原告の被告にあてた手紙は、日ましに冷淡になつていつた。昭和三四年一月、原告は、宮城県から富山県婦負郡細入村楡原細入診療所に転勤したが、なお右坪井節子と同棲して、不貞関係を継続し、被告を呼び寄せようとはしなかつたばかりか、昭和三四年五月からは従来毎月二万五、〇〇〇円の生活費を送金してきていたのに、これを二万円に減額した。被告は、夫の不貞行為に苦悩し、家計の苦しさにさいなまれながらも、夫の改心と子供の成長に期待をかけつつ生活してきたが、原告は、坪井節子との間に子供までもうけ、同人との不倫な関係を清算して、被告との婚姻を継続する意思を有しない。

(五)  原告は、夫として被告との婚姻生活を充実させる責務があつたにもかかわらず、かえつて、坪井節子と不倫な関係を結び、これにより、被告の妻たる地位を侵害したものであるから、被告に対し、右不貞行為による損害賠償義務を負うものである。

(六)  被告は、昭和二〇年に結婚して以来、今日まで約二〇年に及ぶ長い期間にわたつて、妻として可能なかぎりの援助と協力を惜しまなかつた。敗戦の混乱の中で、あるいは、単身帰国後の困窮と不安の中で、被告は、女手一つで四人の子供を養育してきたにも拘わらず、原告は、道義的にも法律的にも最も悪らつな所為で被告を裏切つたものであり、被告の受けた精神的打撃は、まことに甚大である。そして、被告は、原告と離婚するにおいては、四四才にして再出発を余儀なくされるものであり、保健婦としての収入だけでは、生計を維持するにも困難な状況に置かれているのに対し、原告は、医師の資格を有し、高額の収入が保証されている。こうした事情を併せ考えると、被告が原告との離婚に際し受けるべき財産分与の額は、金一〇〇万円をもつて相当とし、また、被告の精神的苦痛に対する慰藉料の額は、金一〇〇万円が相当である。

(七)  なお、原告の非倫理的行為からすると、原、被告間の子の監護教育を原告にさせることは、適当でないけれども、さればといつて、四人とも被告が養育するには、余りにも被告の収入が少ない。そこで、現在被告は長女雅子及び三男徹を、また、原告は昭和三七年三月から長男肇及び次男彰を引取り、それぞれ養育している状況に鑑み、このように親権者を定めるのが相当である。

(八)  よつて、被告は、原告に対し、原告に不貞行為があつたことを原因として、原、被告の離婚を求めるとともに、離婚に伴う財産分与として金一〇〇万円、慰藉料として金一〇〇万円、合計金二〇〇万円及びこれに対する反訴状送達の翌日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため、反訴請求に及んだ。

四、原告訴訟代理人は、反訴につき、「被告の反訴請求を棄却する。反訴訴訟費用は、被告の負担とする」との判決を求め、答弁として、次のように述べた。

(一)  反訴請求原因中、(一)の事実のうち、原告が婚姻届をなしたとの点を除くその余の事実(但し、原告が被告主張の子を認知したことはない)、(二)の事実のうち、被告が貧困と不安の中で生活していたとの点を除くその余の事実、(三)の事実、(四)の事実のうち、原告が訴外坪井節子と内縁関係を結び、子供をもうけたこと、原告が被告にその主張のような金額を送金していたことは認めるが、(一)ないし(四)の右以外の事実ならびに(五)ないし(七)の事実は争う。

(二)  被告は、原告との結婚以前に他の男と夫婦となり、一子(上田三四子)をもうけており、原告と夫婦となつた後も、他の男と関係していたのである。原告は、被告と六年前に離別して、夫婦関係を断ち、現在、前記坪井節子と夫婦となり、子供をもうけて被告との間の長男肇、二男彰と共に、円満な家庭を送つているのである。

(三)  しかるに、被告は、原告が中国抑留中に、婚姻届(昭和二八年一一月一四日付)をなしていたが、右届出は、昭和三一年七月一三日に帰国した原告の知らない虚偽の届出であつて、無効のものであるから、被告の反訴請求は、いずれも失当である。

五、立証<省略>

理由

一、本訴についての判断

(一)  公文書であるから真正に成立したものと認められる甲第一号証(戸籍謄本)によると、昭和二八年一一月一四日香川県香川郡塩江村(現塩江町)長に対して、原告と被告との婚姻届出がなされていることを認めることができる。

しかして、公文書であるから真正に成立したものと認められる甲第二号証(引揚証明書)および乙第二号証(戸籍謄本)、被告本人の供述により原告が作成したものと認められる乙第六、七号証、(手紙)、乙第五一号証(嘱託証人尋問調書)、証人加藤三九朗の証言、ならびに原告および被告各本人尋問の結果を総合すると、原告は、満州国東満総省東安市湖北東安土木工程処湖北労務者病院に、医師として勤務していたが、当時湖北の広島県開拓団の保健婦であつた被告と知り合い、昭和二〇年五月三日原告の恩師で当時東満医学院院長であつた訴外加藤三九朗の媒酌によつて、結婚式を挙げ、夫婦(内縁)となつたこと、その後、間もなく終戦となつて、同地は混乱し、日本人は終戦と同時に進駐してきた中共軍に抑留され、原告は、中共軍の衛生部に、医師として強制徴用されたが、被告も、原告と行動を共にし、北支から中支へと中共軍の作戦に従軍していたこと、夫婦で中国各地を転々としているうちに、被告は、昭和二一年七月六日に長女雅子、同二三年一〇月二三日に長男肇、同二五年一〇月三〇日に二男彰、同二七年七月二一日に三男徹を出生したこと、その後、原告のみ、昭和二八年二月ごろ中共の公安局に引致され、太原の日本人戦犯収容所に投獄されたが、被告は、右四名の子供と共に帰還を許され、昭和二八年一〇月一四日舞鶴港に上陸、帰国したこと、帰国後、被告ら母子は、かねて原告に指示されていたとおり、香川県香川郡塩江町(当時塩江村)御殿場の原告の実父上田清八宅に落着くに至つたこと、被告は、引揚げてきた年の四月が長女雅子の小学校入学期に当つていたため、早急に就学手続をとる必要があつたので、前記上田清八に原告との婚姻届出等を依頼したところ、同人は無筆であつたため、塩江村役場吏員等に代書を依頼して、昭和二八年一一月一四日付で原告及び被告名義によりその婚姻ならびに四子の出生届出の手続をすませたこと、一方、原告は、戦犯収容所へ入所以来、昭和三一年三月に至つてはじめて被告との音信連絡がとれ、同年七月五日に漸く帰国することができたこと、以上の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

右認定の事実によると、原、被告の婚姻届出がなされた当時、原告は、中国に抑留中で、被告との音信連絡も途絶えていたときであるから、原告に婚姻届出の意思がなかつたことは明らかであり、右婚姻届書(乙第四二号証)の原告の署名、押印は、何人かの偽造にかかるものといわねばならない。

(二)  ところで、被告は、原告と被告間には、夫婦生活の実体があり、かつ、原告には、婚姻の意思があつたことは明白であるから、本件婚姻届出は、有効であると主張するので、この点につき考える。

思うに、当事者間に婚姻をする意思の合致がない場合には、たとえ、婚姻届出が受理されても、その婚姻は、無効としなければならない(民法第七四二条第一号)。しかし、婚姻届出自体は、夫婦たるべき者双方が直接これを為す必要はなく、一方が他方の意を受けて、単独で、あるいは第三者が当事者双方の依頼によつて、いずれも有効に届出をなしうることは、明らかであり、更に一歩を進めて、当事者が事実上婚姻意思(婚姻届出の意思)を有しているにも拘らず、届出を怠つているような場合には、夫婦の一方がその届出をすれば、婚姻は、有効に成立するものと解すべきである。けだし、かような場合には、当事者間に婚姻意思があり、これを届出の方式によつて表示しようとする合意も存在するのであるから、それと合致する届出があり、それが受理された以上(当事者が届出をしないことの明瞭な合意をしている場合を除いて)、婚姻は、有効に成立するというべきである(我妻栄、法律学全集親族法五三頁参照)。

これを本件についてみるに、弁論の全趣旨により真正に成立したものと推認できる乙第四号証の一、二(東仁医報)、被告本人の供述および弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第五号証の三(被告の押印なき未届出の離婚届書)、第六号証ないし第二五号証(いずれも手紙)、第二六号証(はがき)、第三一号証ないし第三五号証、第三六号証の二、第三七号証の二、第四三、四四号証(いずれも手紙)、証人市瀬初代、同坪井節子の各証言、ならびに原告および被告各本人尋問の結果を総合すると、原、被告は、正式に挙式して夫婦となり、終戦後中共軍に徴用された後も、夫婦としての生活を許され、この間、共に出生した子供らの養育に当り、抑留中の家族届出にも、二男を彪として出生届をなしていたとうかがわれること、原告が中国に抑留中、一足先に帰国した被告から原告に被告ら家族の状況を知らせたところ、原告は、折返し「何よりも気にかかつていた家族と子供との問題がはつきりして安心した」旨の手紙を出していること、原告は、帰国後、在満時代の医師仲間の会員誌に、被告ら母子を妻子として、上田姓を冠して、会員らに家族紹介していること、また、原告が引揚医師特例試験に合格した昭和三二年五月ごろ被告に戸籍謄本および抄本の送付を依頼し、それらを受取つておりながら、原、被告の婚姻や子供の出生届出等、戸籍記載のことで、被告を非難し、これに異議があつたという様子も窺われないこと、原告は、現在内縁関係にある訴外坪井節子に対して、被告とはどうしてでも別れるということはいつているが、被告との婚姻は無効であるというようなことはいつていないこと、原告は、帰国後医師国家試験に合格するまで、被告と互いに励まし合つて、夫婦として精神的には充実した生活を送つていたのであり、前記坪井節子を知るに至つてから、被告に対する手紙も冷淡となつて、別れ話を持出し、当初は協議離婚という形で、被告を離別しようとしたのであつて、これが被告に拒否されたため、被告との婚姻無効を主張し、本訴提起に至つたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する原告本人の供述の一部は、これを措信しない。

右認定の事実によれば、原告と被告との間には、結婚当初から、社会通念上夫婦と考えられているような精神的肉体的結合があつたことは明らかであり、偶々結婚式を挙げて間もなく現地で終戦を迎え、内戦で混乱している中国各地を中共軍と共に転々としていた異常事態から、帰国するまで、正式の外交機関に婚姻の届出をすることは望めうべくもなかつたことが窺われ、また、原、被告間に婚姻の届出をしないことの合意が存在していたとの事実は認められず、かえつて、原告としても、被告との夫婦関係を届出の方式で表示しようとする意思が存在し、本件届出後も暗にこれを承認していたものと認められるので前記届出をもつてなされた原告と被告との婚姻は、結局、有効に成立したものといわなければならない。

(三)  そうとすれば、原告の被告に対し、原、被告の婚姻無効確認を求める本訴請求は、理由がないとしなければならない。

二、反訴についての判断

(一)  原告と被告とは、昭和二〇年五月三日満州国東安市において、結婚式を挙げ、昭和二八年一一月一四日婚姻の届出をした夫婦で、その間に昭和二一年七月六日に長女雅子、同二三年一〇月二三日に長男肇、同二五年一〇月三〇日に二男彰、同二七年七月二一日に三男徹が出生したこと、ならびに、原告が訴外坪井節子と内縁関係を結んで、現在被告と別居生活を送つていることは、本訴についての判断中で認定したとおりである。

(二)  そこで、被告主張の離婚原因の存否につき、考えてみるに、公文書であるから真正に成立したものと認められる甲第一号証、乙第二号証(いずれも戸籍謄本)、証人田原コマ、同小田福一の各証言、ならびに被告本人尋問の結果および原告本人尋問の結果の一部を併せ考えると、次のような事実を認めることができる。すなわち、

被告は、広島県立松永高等女学校を卒業後、看護婦をしているうちに、医学生訴外竹内八郎と夫婦(内縁)となり、同人との間に三四子(昭和一七年三月九日生)をもうけた。しかし、右竹内八郎が応召、戦死したため、三四子を広島の実家に預けて、満州ハルピンの保健婦養成所へ入り、同所を出て保健婦をしているとき、満州国東安医学院を卒業して、現地医師をしていた原告と知り合い、前段認定のように、原告と結婚した(原告は、その頃既に被告が内縁生活を経験し、子供まで生んでいることを知つており、被告も、それを理由に躊躇していたが、原告がこれを許してくれたから、敢て結婚したものである)。終戦後は、医師として徴用された原告と共に、中共軍衛生部に属して、中国各地を転々としながら、夫婦生活を営んでいたが、昭和二八年一〇月一四日四人の子供を連れて、日本に引揚げ、原告の実家でその父、弟妹らと同居するようになつた。ところが、原告は、そのころ中国の日本人戦犯収容所に抑留され、昭和三一年七月五日まで帰国できなかつたので、この間、被告は、乳呑子を含む四人の幼児を抱えながら、電燈もない不便な山村で、農業の手伝いをしたり、旧塩江村保健婦として働きつつ、夫である原告の帰国を待ち望んでいた。原告は、帰国後数日にして、引揚医師特例試験受験準備のため、被告ら妻子を塩江町に置き、単身愛知県豊田市の加藤三九朗医師の許に寄寓するに至つた。そして、昭和三二年六月原告が該試験に合格するまで、被告は、原告の身廻品などを送つたりして、夫の合格を念願しつつ、別居生活の苦しさに耐えていた。同年八月、被告は、子供らを連れて、豊田市の原告の許に赴き、再び夫婦生活を営むようになつたが、原告は、昭和三三年二月ごろから患者として訪れていた前記坪井節子と交際をはじめるや、次第に被告をいといはじめ、宮城県牡鹿郡牡鹿町所在の谷川診療所医師として赴任の際も、口実をもうけて、被告ら妻子を同行しようとしないので、被告は、子供の学校のことも考慮して、住み馴れた香川県塩江町へ帰り、以来、現在まで原告とは別居状態が続いている。右別居後、原告から被告への手紙の内容も、冷淡になつて、昭和三四年一月に原告がその肩書住所地細入診療所に転勤したときも、被告を呼び寄せようとはしなかつたばかりか、そのころから、原告と谷川診療所以来行動を共にしてきた右坪井節子と同棲するようになり、さらに、同年五月からは、従来生活費として毎月二万五、〇〇〇円を被告に送金していたのを、二万円に減額するに至つた。被告は、夫の不貞行為に悩みながらも、原告の改心と子供の成長に期待をかけつつ生活してきたが、原告は、坪井との間に、昭和三六年一〇月一五日に聡子、同三八年一二月五日に誠司の二児をもうけたうえ、被告に対しては、離婚届に署名押印を要求するに至り、これを断られるや、本訴婚姻無効確認の訴を提起するに及んだ。

以上の事実を認めることができ、右認定に反する原告本人の供述は、これを措信しない。

なお、原告の帰国後、被告が高松赤十字病院で卵巣の手術をうけ、その際卵管結紮の措置をしたことは、認められるが、原告の帰国前に、被告が避姙手術をして、姙娠不能となし、不貞、その他被告の品行を疑わしめるような行為をしていたことは、これを認めるに足る資料がない。

右認定にかかる事実について、考えるに、夫婦は、互いに貞操義務を負うものであるところ、原告が坪井節子と内縁関係を結んでいる事実は、被告に対する貞操義務に違反したものであつて、民法第七七〇条第一項第一号に定められた不貞行為に該当することは明らかである。

(三)  そうとすれば、被告の原告に対し、右事由に基き原、被告の離婚を求める反訴請求は、理由があるものといわねばならない。

(四)  しかして、原、被告間の未成年の長女雅子、長男肇、二男彰および三男徹の親権者の指定について、考えるに、前掲各証拠によると、長男肇と二男彰の二子は、昭和三七年四月ごろから原告が引取り、監護教育しており、長女雅子も右二子と原告に引取られていたが、原告と対立して被告方に戻り、現在は三男徹と共に被告の手で、監護教育を受けている事実が認められる。右認定の事実に、前段認定の事実、その他諸般の情況を斟酌して、長男肇および二男彰の親権者は原告、長女雅子および三男徹の親権者は被告とそれぞれ定めるのが相当である。

(五)  次に、被告の財産分与および慰藉料請求につき、考えてみる。証人坪井節子の証言、ならびに原告および被告各本人尋問の結果によると、原告は、肩書住所の細入診療所医師として勤め、毎月少くとも六万円ないし七万円程度の収入を得ており、被告は、塩江町保健婦として月収手取約二万円を得ていることが認められ、原、被告が他に財産を有することは、これを認めるべき資料がない。

しかして、原告が内地医師としての資格を取得するまでの間、被告が四人の子を抱えて別居生活に耐え、原告の精神的支えとなつていたことは、前記認定のごとくであり、特に、被告が原告の苦難時代を、原告の父をも助けて、切抜けてきたことが、原告の医師資格を取得できたことに相当の寄与をなしたものと推認できる。また、原告と被告との夫婦生活は、事実上破綻するに至つた昭和三七年春まで一七年近くに及び、被告がすでに四十五才であることは、前掲甲第一号証によつて明らかである。以上認定の事実に、原告および被告各本人尋問の結果によつて明らかな両者の地位、その他本件にあらわれた諸般の事情を斟酌すると、原告は、被告に対し、離婚に伴う財産分与として、金五〇万円を分与するのが相当であるから、本判決確定と同時に右金員を支払うべく、また、被告の精神的苦痛に対する慰藉料の額は、金七〇万円をもつて相当とするので、右金員およびこれに対する反訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和三八年一〇月二七日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務があるといわねばならない。

三、結論

以上の次第で、原告の本訴請求は、理由がないので、失当としてこれを棄却することとし、被告の反訴請求は、前記認定の限度において、これを正当として認容し、その余は失当として棄却することとし、訴訟費用は、民事訴訟法第八九条、第九二条但書により、本訴および反訴を通して、原告の負担とすることとし、仮執行の宣言につき、同法第一九六条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 吉田誠吾 古田時博 大山貞雄)

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